詩人一覧(Wikipedia)
詩と地点 宿命
萩原朔太郎
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言葉では書けないところを、言葉というツールを使って書くのが詩である。 |
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・詩題=首都 |
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詩人:そほと |
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詩が余白の芸術ならば私は其処に辿り着きたい |
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・詩題=紫陽花 |
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詩サイト:この私という流れの中で |
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うずもれた私と しがみつく私が 衝突する |
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・詩題=肌寒い夏の空に |
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〜シュールな詩・小説の世界〜 でも、こんな深海から電波って届くのかな? |
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・詩題=どりーむえんど |
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詩サイト:A BOX OF A BOX |
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・詩題=007 |
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詩の原理 詩の原理(抄) 萩原朔太郎 第九章 詩の本質 今や吾人(ごじん)は、始めて本書が標題する実の題目、詩とは何ぞや? の解説に這入(はい)ってきた。詩とは何だろうか。形式についてではなし、内容について言われる詩とは何だろうか? 吾人はこれに対する解答を、どこか前に他の章で暗示したようにも思われるし、また未だしなかったようにも考えられる。とにかく何(いず)れにせよ、この章に於て決定的な解答をしてしまおう。 そもそも詩とは何だろうか。広い意味に於て、自然や人生の到るところに観念されてる、一種不思議な「詩」という言葉は何だろうか。吾人はあえてそれを不思議と言う。なぜならこの言葉は、常に多くの人々によって使用され、到るところに思惟(しい)されているにかかわらず、一も判然とした定義がなく、どこか正体が不明であり、捉(とら)えどころのない靄(もや)の中で、曖昧(あいまい)漠然としているからである。吾人はこの不思議を解明して、詩の本質する定義を確立せねばならないのだ。 第一に解ってることは、この意味の詩が形式上の詩でなくして、詩という文芸が本質しているところの、普遍の本体上の精神、即ち「詩的精神」を指していることである。そこでこの問題を解決するため、あらゆる一般の場合について、人々が普通に考えている詩的精神、即ち所謂(いわゆる)「詩的」の何事たるかを調べてみよう。もし多数の場合について、それが観念されてる例証を見、すべてに共通する本質を取ってみれば、意外に造作なく、吾人は詩の定義に到達することができるであろう。但しこの場合に於ては、一方に詩的精神の反対のもの、即ち世人の言う「*散文的(プロゼック)のもの」について、おなじ思考を対照して行かねばならない。 * 「詩」の対照は必ずしも「散文」でないかも知れない。なぜなら「散文」は「韻文」に対する言語であって、必ずしも詩における対語でないから。しかし一般の言語としては、やはり散文が詩の対語として用いられてる。それで散文的(プロゼック)という言語は、一般に非詩的のもの、詩的でないものを意味している。ここで使用するプロゼックも、勿論(もちろん)この通解の語意による。 人々は一般に、何を詩的と考え、何をプロゼックと思惟するだろうか。もちろん後に言う如く、こうした感じは人によってちがうのである。だが思考を簡明にするために特に一般の場合について、大多数の人が一致している例証を取ってみよう。そして出来るだけ多数の例をあげてみよう。先(ま)ず自然について考えれば、一般に人々は、青い海や松原があるところの、風光明媚(めいび)の景を詩だと言う。もしくは月光に照らされてる、蒼白(あおじろ)い夜の眺(なが)めを詩的だと言う。或(あるい)は霧や霞(かすみ)のかかってる、朦朧(もうろう)とした景色を詩的だと言う。そしてこの反対のもの、即ち平凡にして魅惑のない景色や、昼間の白日に照らされる街路や、明らさまに露出されてる眺めやは、すべて詩のないプロゼックのものだと言う。 同じような感じ方から、人々は或る都会を詩的と言い、他の都会をプロゼックだと言う。例えば定評は、奈良や京都を指して「詩の都」と言い、大阪や東京やをプロゼックだと言う。或は伊太利(イタリー)のヴェニスを詩的と言い、マンチェスタアや紐育(ニューヨーク)をプロゼックだと言う。また熱帯無人境の阿弗利加(アフリカ)内地や、原始的なる南洋タヒチの蛮島等は、単にそれを思うだけでも、吾人にとって詩的の興奮を感じさせる。そしてこの反対は、到るところに見慣れている、吾人の文明的社会である。 人物について言えば、秀吉やナポレオンやの生涯は詩的であるが、徳川家康の成功は散文的だ。同様にまた紀文(きぶん)大尽の成金は詩的であって、安田善兵衡の勤倹貯金はプロゼックだ。仏蘭西(フランス)革命の原動力たるルッソオは、純粋に詩人的の人物として感じられるが、革命の実行家たるロベスピエールは、より散文的の人物に感じられる。そして一般について言えば、運命の数奇を極(きわ)め、境遇の変化に富んだ人の生涯は詩的であるが、平凡無為に終った人の生涯は散文的だ。 もっと外の例をあげてみよう。飛行機に乗って太平洋を横断したり、或は文明を過去に逆行して、古風な駕籠(かご)に乗って旅行したりするのは詩的であるが、普通の汽車に乗って平凡な旅行をするのは散文的だ。恋愛や、戦争や、犠牲的行為やは詩的であって、結婚や、所帯暮しや、単調な日常生活やはプロゼックだ。すべてに於て、歴史の古い過去のものは詩的であるが、現代的の事物はプロゼックだ。人間も正義や革命やを考えてる時は詩的であるが、借金の言いわけを考えてる時はプロゼックだ。そして一般に、神話的のものほど詩的であって、科学的に実証されたものほどプロゼックだ。 以上吾人は、できるだけ多くの場合について、一般に思惟される「詩的のもの」と「プロゼックのもの」とを対照して来た。だが前にも言った通り、こうした感じ方は人々によってちがうので、甲の人が詩的と感ずるもの、必ずしも乙の人にとっての詩的でない。反対に一方の人が詩と考えるところのものが、一方の人の散文であったりするかも知れない。畢竟(ひっきょう)上例したところのものは、仮りに大多数者の一致を見て、世間的通解によったにすぎないのである。故に吾人の地位を換えて、特殊な個人的の立場で見れば、もちろん一般の通解と異なるところの、別の詩的やプロゼックが有り得るだろう。次に吾人は、この特殊な場合を調べてみよう。 前の例に於て、通見は奈良や京都を詩的と言い、伊太利のヴェニスを「詩の都」と言う。けれども奈良や京都に住んでる人が、果して自分の住んでる町を、真に詩的と感じているだろうか。同じ別の例を言えば、欧米人は常に東洋を「詩の国」と言い、特に日本をドリームランドのように考えてる。けだし彼等にとっては、我々の鳥居や、仏寺や、キモノや、ゲイシャや、紙の家やが、すべて夢幻的な詩を感じさせるからである。だが我々の日本人に取ってみれば、キモノや紙の家や足駄ほど、世界に於てプロゼックな事物はないのだ。我々にとってみれば、逆に欧羅巴(ヨーロッパ)の方がずっと詩的である。故(ゆえ)に伊太利ヴェニスの芸術家等は、ゴンドラを焼打ちして水市を破壊し、自動車と飛行機の爆音で充填(じゅうてん)された、幾何学的コンクリートの近代都市を造れと言ってる。けだし彼等にとってみれば、あの黴(かび)臭い古都の空気ほど、没趣味で散文的なものは宇宙にないのだ。 同様の事情によって、都会人の詩は常に田園にあり、田舎人の考える詩は都会にある。前の例に於て、阿弗利加の内地や熱帯の孤島を詩的と考えるのは、煩瑣(はんさ)な社会制度に悩まされて、機械や煤煙(ばいえん)やのために神経衰弱となってるところの、一般文明人の主観である。反対にそうした蛮地に住んでいる土人は、近代文明の不思議な機械や、魔術のような大都会や、玻璃宮(はりきゅう)の窓に映る不夜城の美観を眺めて、この上もなく詩的なものに思うであろう。現代の吾人にとってみれば、駕籠に乗って旅行することは詩的であるが、昔の日本人にとってみれば、これくらいプロゼックのものはなかったろう。むしろ彼等は、西洋の陸蒸気(おかじょうき)に乗って旅することを、無限の詩的に考えていた。 かく個人的の立場で考えれば、各々の人の思惟することは、各々について皆ちがっている。故に何が「詩的なもの」であり、何が「散文的なもの」であるかは、一も明白な判定を下し得ない。畢竟各々の人の環境や主観によって、一々その見るところを別々にし、したがって詩の対象が異ってくる。そしてかくの如くば、吾人は遂に絶望する外ないであろう。けれども認識の対象は、何物が詩的であるかと言うのでなくして、詩的精神そのものの本体が、いかなる性質であるかという一事にかかっている。換言すれば問題は、山の景色が詩的であるか、海の景色が詩的であるかという、その対象の判別ではなく、こうした一般のものについて、吾人の心に感じられる「詩」の本質が、いかなる本有性のものであるかに存するのである。 そこで吾人は、今述べたあらゆる一般の場合について、個々に共通する本質点を探(さが)してみよう。もちろんこの場合の思索に於ては、一切詩の対象について見ないで、ただそれを心に感ずるところの、人の心意のみを観察する。故に始めに例題した多数者の通解も、後に説いた個人的な特殊な場合も、すべてこの場合には同じであって、無差別一様に考え得られる。そもそもこの本質は、何だろうか。第一に明白に解ってるのは、すべて見る人の立場に於て、平凡に感じられるもの、ありふれて感じられるもの、見慣れて退屈に思われるもの、無意味で刺戟を感じないもの等は、決して詩的な印象を呼び起さないという事――即ちプロゼックに感じられるということ――である。 およそ詩的に感じられるすべてのものは、何等か珍しいもの、異常のもの、心の平地に浪(なみ)を呼び起すところのものであって、現在のありふれた環境に無いもの、即ち「現在(ザイン)してないもの」である。故に吾人はすべて外国に対して詩情を感じ、未知の事物にあこがれ、歴史の過去に詩を思い、そして現に環境している自国やよく知れてるものや、歴史の現代に対して詩を感じない。すべてこれ等の「現在(ザイン)しているもの」は、その現実感の故にプロゼックである。 故に詩的精神の本質は、第一に先ず「非所有へのあこがれ」であり、或る主観上の意欲が掲げる、夢の探求であることが解るだろう。次に解明されることは、すべて詩的感動をあたえるものは、本質において「感情の意味」をもっているということである。この事実を例について証明しよう。例えば前の多くの場合で、神話が科学よりも詩的であり、月光の夜が白昼よりも詩的であり、奈良が大阪よりも詩的であり、恋愛が所帯暮しよりも詩的であり、秀吉が家康よりも詩的であるとして、一般の人々に定見されてるのはどういうわけか。 先ず神話と科学を考えてみよ。昔の人は月を見て、嫦娥(じょうが)やダイヤナのような美人が住んでる、天界の理想国を想像していた。然るに今日の天文学は、月が死滅の世界であって、暗澹(あんたん)たる土塊にすぎないことを解明している。そしてこの科学の知識は、月に対する吾人の詩情を幻滅させる。なぜならそこには、自由な空想や聯想(れんそう)を呼び起すべき、豊富な感情としての意味がなく、冷たい知性の意味しか感じられないからだ。一般に夜の景色や霧のかかった風景やが、白昼のそれに比して詩的に感じられる理由も、またこれと同じである。即ち前の者には空想と聯想の自由があり、主観的なる感情を強く呼び起すのに、白昼に照らし出されたものには、そうした感情の意味がなく、反対に知的な認識を強制し、レアリスチックな観察をさせるからである。奈良と大阪との関係もこれに同じで、前者には歴史的の懐古があるのに、後者にはその感情の意味がなく、実務的な商業都市で、すべてが知性の計算に属するからだ。 かく空想や聯想の自由を有して、主観の夢を呼び起すすべてのものは、本質に於て皆「詩」と考えられる。反対に空想の自由がなく、夢が感じられないすべてのものは、本質に於ての散文であり、プロゼックのものと考えられる。故に詩の本質とするすべてのものは、所詮(しょせん)「夢」という言語の意味に、一切尽きている如く思われる。しかしながら吾人の仕事はこの「夢」という言語の意味が、実に何を概念するかを考えるのである。 夢とは何だろうか? 夢とは「現在(ザイン)しないもの」へのあこがれであり、理智の因果によって法則されない、自由な世界への飛翔(ひしょう)である。故に夢の世界は悟性の先験的範疇(はんちゅう)に属してないで、それとはちがった*自由の理法、即ち「感性の意味」に属している。そして詩が本質する精神は、この感情の意味によって訴えられたる、現在(ザイン)しないものへの憧憬(どうけい)である。されば此処(ここ)に至って、始めて詩の何物たるかが分明して来た。詩とは何ぞや? 詩とは実に主観的態度によって認識されたる、宇宙の一切の存在である。もし生活にイデヤを有し、かつ感情に於て世界を見れば、何物にもあれ、詩を感じさせない対象は一もない。逆にまた、かかる主観的精神に触れてくるすべてのものは、何物にもあれ、それ自体に於ての詩である。 故に「詩」と「主観」とは、言語に於てイコールであることが解るだろう。すべて主観的なるものは詩であって、客観的なるものは詩でないのだ。しかし吾人は、此処で一つの疑問が提出されることを考えてる。なぜなら本書のずっと前の章(主観と客観)で言ったように、詩それ自体の部門に於て、主観主義と客観主義との対立があるからだ。詩がもし主観と同字義であるならば、詩に於ける客観派と言うものは考えられない。次にまた或る多くの芸術品は、極(きわ)めて客観的なレアリズムでありながら、本質に於て強く詩を感じさせる魅力を持ってる。これはどうしたものだろうか。すべてこれ等のことについて、本篇と次篇の全部にわたり、徐々に解明して行くであろう。 * カントは「理性」を二部に区分し、因果の理性と自由の理性を対立させた。即ち所謂「純粋理性」と「実践理性」とがこれである。カントの意味では、この自由の理性が倫理にのみ関している。しかしそれが「感情の意味」を指す限り、単なる道徳感ばかりでなく、芸術上の美的理性をも入るべきである。 |