詩集の始に
この詩集には、詩六十篇を納めてある。内十六篇を除いて、他はすべて既刊詩集にないところの、單行本として始めての新版である。
この詩集は「前篇」と「後篇」の二部に別かれる。前篇は第二詩集「青猫」の選にもれた詩をあつめたもの、後篇は第一詩集「月に吠える」の拾遺と見るべきである。即ち前篇は比較的新しく後篇は最も舊作に屬する。
要するにこの詩集は私の拾遺詩集である。しかしながらそのことは、必しも内容の無良心や低劣を意味しない。既刊詩集の「選にもれた」のは、むしろ他の別の原因――たとへば他の詩風との不調和や、同想の類似があつて重複するためや、特にその編纂に際して詩稿を失つて居た爲や――である。現に卷初の「蝶を夢む」「腕のある寢臺」「灰色の道」「その襟足は魚である」等の四篇の如きは、當然「青猫」に入れるべくして誤つて落稿したのである。(もし忠實な讀者があつて、此等の數篇を切り拔き「青猫」の一部に張り入れてもらへば至幸である。)とはいへ、中には私として多少の疑案を感じてゐるところの、言はば未解決の習作が混じてゐないわけでもない。むしろさういふのは、一般の讀者の鑑賞的公評にまかせたいのである。
詩集の銘を「蝶を夢む」といふ。卷頭にある同じ題の詩から取つたのである。
西暦千九百二十三年
著者
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蝶を夢む 詩集前篇
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この章に集めた詩は、「月に吠える」以後最近に至るまでの作で「青猫」の選にもれた分である。但し内八篇は「青猫」から再録した。
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蝶を夢む
座敷のなかで 大きなあつぼつたい翼をひろげる
蝶のちひさな 醜い顏とその長い觸手と
紙のやうにひろがる あつぼつたいつばさの重みと。
わたしは白い寢床のなかで眼をさましてゐる。
しづかにわたしは夢の記憶をたどらうとする
夢はあはれにさびしい秋の夕べの物語
水のほとりにしづみゆく落日と
しぜんに腐りゆく古き空家にかんするかなしい物語。
夢をみながら わたしは幼な兒のやうに泣いてゐた
たよりのない幼な兒の魂が
空家の庭に生える草むらの中で しめつぽいひきがへるのやうに泣いてゐた。
もつともせつない幼な兒の感情が
とほい水邊のうすらあかりを戀するやうに思はれた
ながいながい時間のあひだ わたしは夢をみて泣いてゐたやうだ。
あたらしい座敷のなかで 蝶が翼をひろげてゐる
白い あつぼつたい 紙のやうな翼をふるはしてゐる。
腕のある寢臺
綺麗なびらうどで飾られたひとつの寢臺
ふつくりとしてあつたかい寢臺
ああ あこがれ こがれいくたびか夢にまで見た寢臺
私の求めてゐたただひとつの寢臺
この寢臺の上に寢るときはむつくりとしてあつたかい
この寢臺はふたつのびらうどの腕をもつて私を抱く
そこにはたのしい愛の言葉がある
あらゆる生活のよろこびをもつたその大きな胸の上に
私はすつぽりと疲れたからだを投げかける
ああこの寢臺の上にはじめて寢るときの悦びはどんなであらう
そのよろこびはだれも知らない祕密のよろこび
さかんに強い力をもつてひろがりゆく生命のよろこびだ。
みよ ひとつの魂はその上にすすりなき
ひとつの魂はその上に合掌するまでにいたる
ああかくのごとき大いなる愛憐の寢臺はどこにあるか
それによつて惱めるものは慰められ 求めるものはあたへられ
みなその心は子供のやうにすやすやと眠る
ああ このひとつの寢臺 あこがれもとめ夢にみるひとつの寢臺
ああこの幻の寢臺はどこにあるか。
青空に飛び行く
かれは感情に飢ゑてゐる。
かれは風に帆をあげて行く舟のやうなものだ
かれを追ひかけるな
かれにちかづいて媚をおくるな
かれを走らしめろ 遠く白い浪のしぶきの上にまで。
ああ かれのかへつてゆくところに健康がある。
まつ白な 大きな幸福の寢床がある。
私をはなれて住むときには
かれにはなんの煩らひがあらう!
私は私でここに止つてゐよう
まづしい女の子のやうに 海岸に出で貝でも拾つてゐよう
ねぢくれた松の木の幹でも眺めてゐよう
さうして灰色の砂丘に坐つてゐると
私は私のちひさな幸福に涙がながれる。
ああ かれをして遠く遠く沖の白浪の上にかへらしめろ
かれにはかれの幸福がある。
ああかくして、一羽の鳥は青空に飛び行くなり。
冬の海の光を感ず
遠くに冬の海の光をかんずる日だ
さびしい大浪の音をきいて心はなみだぐむ。
けふ沖の鳴戸を過ぎてゆく舟の乘手はたれなるか
その乘手等の黒き腕に浪の乘りてかたむく
ひとり凍れる浪のしぶきを眺め
海岸の砂地に生える松の木の梢を眺め
ここの日向に這ひ出づる蟲けらどもの感情さへ
あはれを求めて砂山の影に這ひ登るやうな寂しい日だ
遠くに冬の海の光をかんずる日だ
ああわたしの憂愁のたえざる日だ
かうかうと鳴るあの大きな浪の音をきけ
あの大きな浪のながれにむかつて
孤獨のなつかしい純銀の鈴をふり鳴らせよ
わたしの傷める肉と心。
騷擾
重たい大きな翼をばたばたして
ああなんといふ弱弱しい心臟の所有者だ
花瓦斯のやうな明るい月夜に
白くながれてゆく生物の群をみよ。
そのしづかな方角をみよ
この生物のもつひとつの切なる感情をみよ
明るい花瓦斯のやうな月夜に
ああなんといふ悲しげな いぢらしい蝶類の騷擾だ。
群集の中を求めて歩く
私はいつも都會をもとめる
都會のにぎやかな群集の中に居ることをもとめる。
群集は大きな感情をもつたひとつの浪のやうなものだ
どこへでも流れてゆくひとつのさかんな意志と愛慾とのぐるうぷだ。
ああ ものがなしき春のたそがれどき
都會の入り混みたる建築と建築との日影をもとめ
大きな群集の中にもまれて行くのはどんなに樂しいことか
みよ この群集のながれてゆくありさまを
ひとつの浪はひとつの浪の上にかさなり
浪はかずかぎりなき日影をつくり 日影はゆるぎつつひろがりすすむ
人のひとりひとりにもつ愁ひと悲しみと みなそこの日影に消えてあとかたもない。
ああなんといふやすらかな心で 私はこの道をも歩いてゆくことか。
ああこの大いなる愛と無心のたのしき日影
たのしき浪の彼方につれられてゆく心もちは涙ぐましくなるやうだ。
うらがなしい春の日のたそがれどき
このひとびとの群は建築と建築との軒を泳いで
どこへどうして流れゆかうとするのか
私のかなしい憂愁をつつんでゐるひとつの大きな地上の日影
ただよふ無心の浪のながれ
ああどこまでもどこまでも この群集の浪の中をもまれて行きたい。
内部への月影
憂鬱のかげのしげる
この暗い家屋の内部に
ひそかにしのび入り
ひそかに壁をさぐり行き
手もて風琴の鍵盤に觸れるはたれですか。
そこに宗教のきこえて
しづかな感情は室内にあふれるやうだ。
洋燈を消せよ
洋燈を消せよ
暗く憂鬱な部屋の内部を
しづかな冥想のながれにみたさう。
書物をとりて棚におけ
あふれる情調の出水にうかばう。
洋燈を消せよ
洋燈を消せよ。
いま憂鬱の重たくたれた
黒いびらうどの帷幕のかげを
さみしく音なく彷徨する
ひとつの幽しい幻像はなにですか。
きぬずれの音もやさしく
こよひのここにしのべる影はたれですか。
ああ内部へのさし入る月影
階段の上にもながれ ながれ。
陸橋
陸橋を渡つて行かう
黒くうづまく下水のやうに
もつれる軌道の高架をふんで
はるかな落日の部落へ出よう。
かしこを高く
天路を翔けさる鳥のやうに
ひとつの架橋を越えて跳躍しよう。
灰色の道
日暮れになつて散歩する道
ひとり私のうなだれて行く
あまりにさびしく灰色なる空の下によこたふ道
あはれこのごろの夢の中なるまづしき乙女
その乙女のすがたを戀する心にあゆむ
その乙女は薄黄色なる長き肩掛けを身にまとひて
肩などはほつそりとやつれて哀れにみえる
ああこのさびしく灰色なる空の下で
私たちの心はまづしく語り 草ばなの露にぬれておもたく寄りそふ。
戀びとよ
あの遠い空の雷鳴をあなたは聽くか
かしこの空にひるがへる波浪の響にも耳をかたむけたまふか。
戀びとよ
このうす暗い冬の日の道邊に立つて
私の手には菊のすえたる匂ひがする
わびしい病鬱のにほひがする。
ああげにたへがたくもみじめなる私の過去よ
ながいながい孤獨の影よ
いまこの竝木ある冬の日の街路をこえて
わたしは遠い白日の墓場をながめる
ゆうべの夢のほのかなる名殘をかぎて
さびしいありあけの山の端をみる。
戀びとよ 戀びとよ。
戀びとよ
物言はぬ夢のなかなるまづしい乙女よ
いつもふたりでぴつたりとかたく寄りそひながら
おまへのふしぎな麝香のにほひを感じながら
さうして霧のふかい谷間の墓をたづねて行かうね。
その手は菓子である
そのじつにかはゆらしい むつくりとした工合はどうだ
そのまるまるとして菓子のやうにふくらんだ工合はどうだ
指なんかはまことにほつそりとしてしながよく
まるでちひさな青い魚類のやうで
やさしくそよそよとうごいてゐる樣子はたまらない
ああその手の上に接吻がしたい
そつくりと口にあてて喰べてしまひたい
なんといふすつきりとした指先のまるみだらう
指と指との谷間に咲く このふしぎなる花の風情はどうだ。
その匂ひは麝香のやうで 薄く汗ばんだ桃の花のやうにみえる。
かくばかりも麗はしくみがきあげた女性の指
すつぽりとしたまつ白のほそながい指
ぴあのの鍵盤をたたく指
針をもて絹をぬふ仕事の指
愛をもとめる肩によりそひながら
わけても感じやすい皮膚の上に
かるく爪先をふれ
かるく爪でひつかき
かるくしつかりと押へつけるやうにする指のはたらき
そのぶるぶるとみぶるひをする愛のよろこび
はげしく狡猾にくすぐる指
おすましで意地惡のひとさし指
卑怯で快活な小指のいたづら
親指の肥え太つた美しさとその暴虐なる野蠻性。
ああ そのすべすべとみがきあげたいつぽんの指をおしいただき
すつぽりと口にふくんでしやぶつてゐたい いつまでたつてもしやぶつてゐたい。
その手の甲はわつぷるのふくらみで
その手の指は氷砂糖のつめたい食慾
ああ この食慾
子供のやうに意地のきたない無智の食慾。
その襟足は魚である
ふかい谷間からおよぎあがる魚類のやうで
いつもしつとり濡れて青ざめてゐるながい襟足
すべすべと磨きあげた大理石の柱のやうで
まつすぐでまつ白で
それでゐて恥かしがりの襟足
このなよなよとした襟くびのみだらな曲線
いつもおしろいで塗りあげたすてきな建築
そのおしろいのねばねばと肌にねばりつく魚の感覺
またその魚類の半襟のなかでおよいでゐるありさまはどうです
ああこのなまめかしい直線のもつふしぎな誘惑
そのぬらぬらとした魚類の音樂にはたへられない
あはれ身を藻草のたぐひとなし
はやくこの奇異なる建築の柱にねばりつきたい
はやく はやく この解きがたい夢の Nymph に身をまかせて。
春の芽生
私は私の腐蝕した肉體にさよならをした
そしてあたらしくできあがつた胴體からは
あたらしい手足の芽生が生えた
それらはじつにちつぽけな
あるかないかも知れないぐらゐの芽生の子供たちだ
それがこんな麗らかの春の日になり
からだ中でぴよぴよと鳴いてゐる
かはいらしい手足の芽生たちが
さよなら、さよなら、さよなら、と言つてゐる。
おおいとしげな私の新芽よ
はちきれる細胞よ
いま過去のいつさいのものに別れを告げ
ずゐぶん愉快になり
太陽のきらきらする芝生の上で
なまあたらしい人間の皮膚の上で
てんでに春のぽるかを踊るときだ。
黒い蝙蝠
わたしの憂鬱は羽ばたきながら
ひらひらと部屋中を飛んでゐるのです。
ああなんといふ幻覺だらう
とりとめもない怠惰な日和が さびしい涙をながしてゐる。
もう追憶の船は港をさり
やさしい戀人の捲毛もさらさらに乾いてしまつた
草場に昆蟲のひげはふるへて
季節は亡靈のやうにほの白くすぎてゆくのです。
ああ私はなにも見ない。
せめては片戀の娘たちよ
おぼろにかすむ墓場の空から 夕風のやさしい歌をうたつておくれ。
石竹と青猫
みどりの石竹の花のかげに ひとつの幻の屍體は眠る
その黒髮は床にながれて
手足は力なく投げだされ 寢臺の上にあふむいてゐる。
この密室の幕のかげを
ひそかに音もなくしのんでくる ひとつの青ざめたふしぎの情慾
そはむしかへす麝香になやみ
くるしく はづかしく なまめかしき思ひのかぎりをしる。
ああいま春の夜の灯かげにちかく
うれしくも屍蝋のからだを嗅ぎてもてあそぶ
やさしいくちびるに油をぬりつけ すべすべとした白い肢體をもてあそぶ。
そはひとつのさびしい青猫
君よ夢魔におびえて このかなしい戲れをとがめたまふな。
海鳥
ある夜ふけの遠い空に
洋燈のあかり白白ともれてくるやうにしる
かなしくなりて家家の乾場をめぐり
あるいは海岸にうろつき行き
くらい夜浪のよびあげる響をきいてる。
しとしととふる雨にぬれて
さびしい心臟は口をひらいた
ああ かの海鳥はどこへ行つたか。
運命の暗い月夜を翔けさり
夜浪によごれた腐肉をついばみ泣きゐたりしが
ああ遠く飛翔し去つてかへらず。
眺望
旅の記念として、室生犀星に
さうさうたる高原である
友よ この高きに立つて眺望しよう。
僕らの人生について思惟することは
ひさしく既に轉變の憂苦をまなんだ
ここには爽快な自然があり
風は全景にながれてゐる。
瞳をひらけば
瞳は追憶の情侈になづんで濡れるやうだ。
友よここに來れ
ここには高原の植物が生育し
日向に快適の思想はあたたまる。
ああ君よ
かうした情歡もひさしぶりだ。
蟾蜍
雨景の中で
ぽうとふくらむ蟾蜍
へんに膨大なる夢の中で
お前の思想は白くけぶる。
雨景の中で
ぽうと呼吸をすひこむ靈魂
妙に幽明な宇宙の中で
一つの時間は消抹され
一つの空間は擴大する。
家畜
花やかな月が空にのぼつた
げに大地のあかるいことは。
小さな白い羊たちよ
家の屋根の下にお這入り
しづかに涙ぐましく動物の足調子をふんで。
夢
あかるい屏風のかげにすわつて
あなたのしづかな寢息をきく。
香爐のかなしい烟のやうに
そこはかとたちまよふ
女性のやさしい匂ひをかんずる。
かみの毛ながきあなたのそばに
睡魔のしぜんな言葉をきく
あなたはふかい眠りにおち
わたしはあなたの夢をかんがふ
このふしぎなる情緒
影なきふかい想ひはどこへ行くのか。
薄暮のほの白いうれひのやうに
はるかに幽かな湖水をながめ
はるばるさみしい麓をたどつて
見しらぬ遠見の山の峠に
あなたはひとり道にまよふ 道にまよふ。
ああ なににあこがれもとめて
あなたはいづこへ行かうとするか
いづこへ、いづこへ、行かうとするか。
あなたの感傷は夢魔に酢えて
白菊の花のくさつたやうに
ほのかに神祕なにほひをたたふ。
寄生蟹のうた
潮みづのつめたくながれて
貝の齒はいたみに齲ばみ酢のやうに溶けてしまつた
ああ ここにはもはや友だちもない戀もない
渚にぬれて亡靈のやうな草を見てゐる
その草の根はけむりのなかに白くかすんで
春夜のなまぬるい戀びとの吐息のやうです。
おぼろにみえる沖の方から
船びとはふしぎな航海の歌をうたつて 拍子も高く楫の音がきこえてくる
あやしくもここの磯邊にむらがつて
むらむらとうづ高くもりあがり また影のやうに這ひまはる
それは雲のやうなひとつの心像 さびしい寄生蟹の幽靈ですよ。
野鼠
どこに私らの幸福があるのだらう
泥土の砂を掘れば掘るほど
悲しみはいよいよふかく湧いてくるではないか
春は幔幕のかげにゆらゆらとして
遠く俥にゆすられながら行つてしまつた。
どこに私らの戀人があるのだらう
ばうばうとした野原に立つて口笛を吹いてみても
もう永遠に空想の娘らは來やしない。
なみだによごれためるとんのづぼんをはいて
私は日傭人のやうに歩いてゐる
ああもう希望もない 名譽もない 未來もない
さうしてとりかへしのつかない悔恨ばかりが
野鼠のやうに走つて行つた。
閑雅な食慾
松林の中を歩いて
あかるい氣分の珈琲店をみた
遠く市街を離れたところで
だれも訪づれてくるひとさへなく
松間の かくされた 追憶の 夢の中の珈琲店である。
をとめは戀戀の羞をふくんで
あけぼののやうに爽快な 別製の皿を運んでくる仕組
私はゆつたりとふほくを取つて
おむれつ ふらいの類を喰べた
空には白い雲がうかんで
たいそう閑雅な食慾である。
馬車の中で
馬車の中で
私はすやすやと眠つてしまつた。
きれいな婦人よ
私をゆり起してくださるな
明るい街燈の巷をはしり
すずしい緑蔭の田舍をすぎ
いつしか海の匂ひも行手にちかくそよいでゐる。
ああ蹄の音もかつかつとして
私はうつつにうつつを追ふ
きれいな婦人よ
旅館の花ざかりなる軒にくるまで
私をゆり起してくださるな。
野景
弓なりにしなつた竿の先で
小魚がいつぴき ぴちぴちはねてゐる
おやぢは得意で有頂天だが
あいにく世間がしづまりかへつて
遠い牧場では
牛がよそつぽをむいてゐる。
絶望の逃走
おれらは絶望の逃走人だ
おれらは監獄やぶりだ
あの陰鬱な柵をやぶつて
いちどに街路へ突進したとき
そこらは叛逆の血みどろで
看守は木つ葉のやうにふるへてゐた。
あれからずつと
おれらは逃走してやつて來たのだ
あの遠い極光地方で 寒ざらしの空の下を
みんなは栗鼠のやうに這ひつた
いつもおれたちの行くところでは
暗愁の、曇天の、吠えつきたい天氣があつた。
逃走の道のほとりで
おれらはさまざまの自然をみた
曠野や、海や、湖水や、山脈や、都會や、部落や、工場や、兵營や、病院や、銅山や
おれらは逃走し
どこでも不景氣な自然をみた
どこでもいまいましいめに出あつた。
おれらは逃走する
どうせやけくその監獄やぶりだ
規則はおれらを捕縛するだらう
おれらは正直な無頼漢で
神樣だつて信じはしない、何だつて信ずるものか
良心だつてその通り
おれらは絶望の逃走人だ。
逃走する
逃走する
あの荒涼とした地方から
都會から
工場から
生活から
宿命からでも逃走する
さうだ! 宿命からの逃走だ。
日はすでに暮れようとし
非常線は張られてしまつた
おれらは非力の叛逆人で
厭世の、猥弱の、虚無の冒涜を知つてるばかりだ。
ああ逃げ道はどこにもない
おれらは絶望の逃走人だ。
僕等の親分
剛毅な慧捷の視線でもつて
もとより不敵の彼れが合圖をした
「やい子分の奴ら!」
そこで子分は突つぱしり 四方に氣をくばり
めいめいのやつつける仕事を自覺した。
白晝商館に爆入し
街路に通行の婦人をひつさらつた
かれらの事業は奇蹟のやうで
まるで禮儀にさへ適つてみえる。
しづかな、電光の、抹殺する、まるで夢のやうな兇行だから
市街に自動車は平氣ではしり
どんな平和だつてみだしはしない。
もとより不敵で豪膽な奴らは
ぬけ目のない計畫から
勇敢から、快活から、押へきれない欲情から
自由に空をきる鳥のやうだ。
見ろ 見ろ 一團の襲撃するところ
意志と理性に照らされ
やくざの祕密はひつぺがされ
どこでも偶像はたたきわられる
剛毅な 慧捷の瞳でもつて
僕等の親分が合圖をする。
僕等は卑怯でみすぼらしく 生き甲斐もない無頼漢であるが
僕等の親分を信ずるとき
僕等の生活は充血する
仲間のみさげはてた奴らまでが
いつぽんぶつこみ 拔きつれ
まつすぐ喧嘩の、繩ばりの、讐敵の修羅場へたたき込む。
僕等の親分は自由の人で
青空を行く鷹のやうだ。
もとより大膽不敵な奴で
計畫し、遂行し、豫言し、思考し、創見する。
かれは生活を創造する。
親分!
涅槃
花ざかりなる菩提樹の下
密林の影のふかいところで
かのひとの思惟にうかぶ
理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。
涅槃は熱病の夜あけにしらむ
青白い月の光のやうだ
憂鬱なる 憂鬱なる
あまりに憂鬱なる厭世思想の
否定の、絶望の、惱みの樹蔭にただよふ靜かな月影
哀傷の雲間にうつる合歡の花だ。
涅槃は熱帶の夜明けにひらく
巨大の美しい蓮華の花か
ふしぎな幻想のまらりや熱か
わたしは宗教の祕密をおそれる
ああかの神祕なるひとつのいめえぢ――「美しき死」への誘惑。
涅槃は媚藥の夢にもよほす
ふしぎな淫慾の悶えのやうで
それらのなまめかしい救世の情緒は
春の夜に聽く笛のやうだ。
花ざかりなる菩提樹の下
密林の影のふかいところで
かのひとの思惟にうかぶ
理性の、幻想の、情感の、いとも美しい神祕をおもふ。
かつて信仰は地上にあつた
でうすはいすらええるの野にござつて
惡しき大天狗小天狗を退治なされた。
「人は麥餠だけでは生きないのぢや」
初手の天狗が出たとき
泥薄如來の言はれた言葉ぢや
これぢやで皆樣
ひとはたましひが大事でござらう。
たましひの罪を洗ひ淨めて
よくよく昇天の仕度をなされよ。
この世の説教も今日かぎりぢや
明日はくるすでお目にかからう。
南無童貞麻利亞聖天 保亞羅大師
さんたまりや さんたまりや。
信仰のあつい人人は
いるまんの眼にうかぶ涙をかんじた
悦びの、また悲しみの、ふしぎな情感のかげをかんじた。
ひとびとは天を仰いだ
天の高いところに、かれらの眞神の像を眺めた。
さんたまりや さんたまりや。
奇異なるひとつのいめえぢは
私の思ひをわびしくする
かつて信仰は地上にあつた。
宇宙の 無限の 悠悠とした空の下で
はるかに永生の奇蹟をのぞむ 熱したひとびとの群があつた。
ああいま群集はどこへ行つたか
かれらの幻想はどこへ散つたか。
わびしい追憶の心像は、蒼空にうかぶ雲のやうだ。
商業
商業は旗のやうなものである
貿易の海をこえて遠く外國からくる船舶よ
あるいは綿や瑪瑙をのせ
南洋 亞細亞の島島をめぐりあるく異國のまどろすよ。
商業の旗は地球の國國にひるがへり
自由の領土のいたるところに吹かれてゐる。
商人よ
港に君の荷物は積まれ
さうして運命は出帆の汽笛を鳴らした。
荷主よ
水先案内よ
いまおそろしい嵐のまへに むくむくと盛りあがる雲を見ないか
妖魔のあれ狂ふすがたを見ないか
たちまち帆柱は裂きくだかれ
するどく笛のさけばれ
さうして船腹の浮きあがる青じろい死魚を見る。
ああ日はしづみゆき
かなしく沖合にさまよふ不吉の鴎はなにを歌ふぞ。
商人よ
ふたたび椰子の葉の茂る港にかへり
君のあたらしい綿と瑪瑙を積みかへせ
亞細亞のふしぎなる港々にさまよひ來り
青空高くひるがへる商業の旗の上に
ああかのさびしげなる幽靈船のうかぶをみる。
商人よ! 君は冒險にして自由の人
君は白い雲のやうに、この解きがたくふしぎなる愁ひをしる。
商業は旗のやうなものである。
まづしき展望
まづしき田舍に行きしが
かわける馬秣を積みたり
雜草の道に生えて
道に蠅のむらがり
くるしき埃のにほひを感ず。
ひねもす疲れて畔に居しに
君はきやしやなる洋傘の先もて
死にたる蛙を畔に指せり。
げにけふの思ひは惱みに暗く
そはおもたく沼地に渇きて苦痛なり
いづこに空虚のみつべきありや
風なき野道に遊戲をすてよ
われらの生活は失踪せり。
農夫
海牛のやうな農夫よ
田舍の家根には草が生え、夕餉の烟ほの白く空にただよふ。
耕作を忘れたか肥つた農夫よ
田舍に飢饉は迫り 冬の農家の荒壁は凍つてしまつた。
さうして洋燈のうす暗い廚子のかげで
先祖の死靈がさむしげにふるへてゐる。
このあはれな野獸のやうに
ふしぎな宿命の恐怖に憑かれたものども
その胃袋は野菜でみたされ くもつた神經に暈がかかる。
冬の寒ざらしの貧しい田舍で
愚鈍な 海牛のやうな農夫よ。
波止場の烟
野鼠は畠にかくれ
矢車草は散り散りになつてしまつた
歌も 酒も 戀も 月も もはやこの季節のものでない
わたしは老いさらばつた鴉のやうに
よぼよぼとして遠國の旅に出かけて行かう
さうして乞食どものうろうろする
どこかの遠い港の波止場で
海草の焚けてる空のけむりでも眺めてゐよう
ああ まぼろしの乙女もなく
しをれた花束のやうな運命になつてしまつた
砂地にまみれ
礫利食がにのやうにひくい音で泣いて居よう。
[#改丁]
松葉に光る 詩集後篇
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この章に集めた詩は、「月に吠える」の前半にある「天上縊死」「竹と哀傷」等の作と同時代のもので、私の詩風としては極めて初期のものに屬する。すべて「月に吠える」前派の傾向と見られたい。但し内八篇は同じ詩集から再録した。
[#改ページ]
狼
見よ
來る
遠くよりして疾行するものは銀の狼
その毛には電光を植ゑ
いちねん牙を研ぎ
遠くよりしも疾行す。
ああ狼のきたるにより
われはいたく怖れかなしむ
われはわれの肉身の裂かれ鋼鐵となる薄暮をおそる
きけ淺草寺の鐘いんいんと鳴りやまず
そぞろにわれは畜生の肢體をおそる
怖れつねにかくるるにより
なんぴとも素足をみず
されば都にわれの過ぎ來し方を知らず
かくしもおとろへしけふの姿にも
狼は飢ゑ牙をとぎて來れるなり。
ああわれはおそれかなしむ
まことに混閙の都にありて
すさまじき金屬の
疾行する狼の跫音をおそる。
松葉に光る
燃えあがる
燃えあがる
あるみにうむのもえあがる
雪ふるなべにもえあがる
松葉に光る
縊死の屍體のもえあがる
いみじき炎もえあがる。
輝やける手
おくつきの砂より
けちえんの手くびは光る
かがやく白きらうまちずむの屍蝋の手
指くされども
らうらんと光り哀しむ。
ああ故郷にあればいのち青ざめ
手にも秋くさの香華おとろへ
青らみ肢體に螢を點じ
ひねもす墓石にいたみ感ず。
みよ おくつきに銀のてぶくろ
かがやき指はひらかれ
石英の腐りたる
われが烈しき感傷に
けちえんの、らうまちずむの手は光る。
酢えたる菊
その菊は酢え
その菊はいたみしたたる
あはれあれ霜月はじめ
わがぷらちなの手はしなへ
するどく指をとがらして
菊をつまんとねがふより
その菊をばつむことなかれとて
かがやく天の一方に
菊は病み
酢えたる菊はいたみたる。
悲しい月夜
ぬすつと犬めが
くさつた波止場の月に吠えてゐる
たましひが耳をすますと
陰氣くさい聲をして
黄色い娘たちが合唱してゐる
合唱してゐる
波止場のくらい石垣で。
いつも
なぜおれはこれなんだ
犬よ
青白いふしあはせの犬よ。
かなしい薄暮
かなしい薄暮になれば
勞働者にて東京市中が滿員なり
それらの憔悴した帽子のかげが
市街中いちめんにひろがり
あつちの市區でもこつちの市區でも
堅い地面を掘つくりかへす
掘り出して見るならば
煤ぐろい嗅煙草の銀紙だ
重さ五匁ほどもある
にほひ菫のひからびきつた根つ株だ
それも本所深川あたりの遠方からはじめ
おひおひ市中いつたいにおよぼしてくる。
なやましい薄暮のかげで
しなびきつた心臟がしやべるを光らす。
天路巡歴
おれはかんがへる
おれの長い歴史から
なにをして來たか
なにを學問したか
なにを見て來たか。
いつさいは祕密だ
だがなんて青い顏をした奴らだ
おれの腕にぶらさがつて
蛇のやうにつるんでゐた奴らだ
おれは決して忘れない
おれの長い歴史から
あいつらは
死よりも恐ろしい祕密だ。
おれはかんがへる
そのときまるであいつらの眼が
おれの手くびにくつついてゐたことを
おれの胴體に
のぞきめがねを仕掛けた奴らだ
おれをひつぱたく
おれの力は
馬車馬のやうにひつぱたく。
そしてだんだんと
おれは天路を巡歴した
異樣な話だが
おれはじつさい 獨身者であつた。
龜
林あり
沼あり
蒼天あり
ひとの手には重みをかんじ
しづかに純金の龜ねむる
この光る
さびしき自然のいたみにたへ
ひとの心靈にまさぐりしづむ
龜は蒼天のふかみにしづむ。
白夜
夜霜まぢかくしのびきて
跫音をぬすむ寒空に
微光のうすものすぎさる感じ
ひそめるものら
遠見の柳をめぐり出でしが
ひたひたと出でしが
見よ 手に銀の兇器は冴え
闇に冴え
あきらかにしもかざされぬ
そのものの額の上にかざされぬ。
巣
竹の節はほそくなりゆき
竹の根はほそくなりゆき
竹の纖毛は地下にのびゆき
錐のごとくなりゆき
絹絲のごとくかすれゆき
けぶりのやうに消えさりゆき。
ああ髮の毛もみだれみだれし
暗い土壤に罪びとは
懺悔の巣をぞかけそめし。
懺悔
あるみにうむの薄き紙片に
すべての言葉はしるされたり
ゆきぐもる空のかなたに罪びとひとり
ひねもす齒がみなし
いまはやいのち凍らんとするぞかし。
ま冬を光る松が枝に
懺悔のひとの姿あり。
夜の酒場
夜の酒場の
暗緑の壁に
穴がある。
かなしい聖母の額
額の裏に
穴がある。
ちつぽけな
黄金蟲のやうな
祕密の
魔術のぼたんだ。
眼をあてて
そこから覗く
遠くの異樣な世界は
妙なわけだが
だれも知らない。
よしんば
醉つぱらつても
青白い妖怪の酒盃は、
「未知」を語らない。
夜の酒場の壁に
穴がある。
月夜
へんてこの月夜の晩に
ゆがんだ建築の夢と
醉つぱらひの圓筒帽子。
見えない兇賊
兩手に兇器
ふくめんの兇賊
往來にのさばりかへつて
木の葉のやうに
ふるへてゐる奴。
いつしよけんめいでみつめてゐる
みつめてゐるなにものかを
だがかはいさうに
奴め 背後に氣がつかない、
背後には未知の犯罪
もうもうとしてゐる黒の板塀。
夜目にも光る
白銀の服を着こんだ奴
この奇體な
それでゐて
みたものもない片目の兇賊。
有害なる動物
犬のごときものは吠えることにより
鵞鳥のごときものは畸形兒なることにより
狐のごときものは夜間に於て發光することにより
龜のごときものは凝晶することにより
狼のごときものは疾行することによりてさらに甚だしく
すべて此等のものは人身の健康に有害なり。
さびしい人格
さびしい人格が私の友を呼ぶ
わが見知らぬ友よ早くきたれ
ここの古い椅子に腰をかけて二人でしづかに話してゐよう
なにも悲しむことなく君と私でしづかな幸福な日を暮さう
遠い公園のしづかな噴水の音をきいてゐよう
しづかに しづかに 二人でかうして抱きあつてゐよう。
母にも父にも兄弟にも遠くはなれて
母にも父にも知らない孤兒の心をむすびあはさう
ありとあらゆる人間の生活の中で
おまへと私だけの生活について話しあはう
まづしいたよりない二人だけの祕密の生活について
ああその言葉は秋の落葉のやうにさうさうとして膝の上にも散つてくるではないか。
わたしの胸はかよわい病氣した幼な兒の胸のやうだ
わたしの心は恐れにふるへるせつないせつない熱情のうるみに燃えるやうだ。
ああいつかも私は高い山の上へ登つて行つた
けはしい坂路をあふぎながら蟲けらのやうにあこがれて登つて行つた
山の絶頂に立つたとき蟲けらはさびしい涙をながした。
あふげばばうばうたる草むらの山頂で大きな白つぽい雲がながれてゐた。
自然はどこでも私を苦しくする
そして人情は私を陰鬱にする
むしろ私はにぎやかな都會の公園を歩きつかれて
とある寂しい木蔭の椅子を見つけるのが好きだ。
ぼんやりした心で空を見てゐるのが好きだ
ああ都會の空を遠く悲しげにながれてゆく煤煙
またその都會の屋根をこえてはるかにちひさく燕の飛んで行く姿をみるのが好きだ。
よにもさびしい私の人格が
おほきな聲で見知らぬ友を呼んでゐる
わたしの卑屈で不思議な人格が
鴉のやうなみすぼらしい樣子をして
人氣のない冬枯れの椅子の片隅にふるへて居る。
戀を戀する人
わたしはくちびるにべにをぬつて
あたらしい白樺の幹に接吻した。
よしんば私が美男であらうとも
わたしの胸にはごむまりのやうな乳房がない
わたしの皮膚からはきめのこまかい粉おしろいの匂ひがしない
わたしはしなびきつた薄命男だ
ああなんといふいぢらしい男だ
けふのかぐはしい初夏の野原で
きらきらする木立の中で
手には空色の手ぶくろをすつぽりとはめてみた
腰にはこるせつとのやうなものをはめてみた
襟には襟おしろいのやうなものをぬりつけた
かうしてひつそりとしなをつくりながら
わたしは娘たちのするやうに
こころもちくびをかしげて
あたらしい白樺の幹に接吻した。
くちびるにばらいろのべにをぬつて
まつしろの高い樹木にすがりついた。
贈物にそへて
兵隊どもの列の中には
性分のわるいものが居たので
たぶん標的の圖星をはづした
銃殺された男が
夢のなかで息をふきかへしたときに
空にはさみしいなみだがながれてゐた。
『これはさういふ種類の煙草です』
遊泳
浮びいづるごとくにも
その泳ぎ手はさ青なり
みなみをむき
なみなみのながれははしる。
岬をめぐるみづのうへ
みな泳ぎ手はならびゆく。
ならびてすすむ水のうへ
みなみをむき
沖合にあるもいつさいに
祈るがごとく浪をきる。
瞳孔のある海邊
地上に聖者あゆませたまふ
烈日のもと聖者海邊にきたればよする浪浪
浪浪砂をとぎさるうへを
聖者ひたひたと歩行したまふ。
おん脚白く濡らし
怒りはげしきにたへざれば
足なやみひとり海邊をわたらせたまふ。
見よ 烈日の丘に燃ゆる瞳孔あり
おん手に魚あれども泳がせたまはず
聖者めんめんと涙をたれ
はてしなき砂金の道を踏み行きたまふ。
空に光る
わが哀傷のはげしき日
するどく齲齒を拔きたるに
この齲齒は昇天し
たちまち高原の上にうかびいで
ひねもす怒りに輝やけり。
みよくもり日の空にあり
わが瞳にいたき
とき金色のちさき蟲
中空に光りくるめけり。
緑蔭倶樂部
都のみどりば瞳にいたく
緑蔭倶樂部の行樂は
ちまたに銀をはしらしむ
五月はじめの朝まだき
街樹の下に竝びたる
わがともがらの一列は
はまきたばこの魔醉より
襟脚きよき娘らをいだきしむ。
緑蔭倶樂部の行樂の
その背廣はいちやうにうす青く
みよや都のひとびとは
手に手に白き皿を捧げもち
しづしづとはや遠近を行きかへり
緑蔭倶樂部の會長の
遠き畫廊を渡り行くとき。
榛名富士
その絶頂を光らしめ
とがれる松を光らしめ
峰に粉雪けぶる日も
松に花鳥をつけしめよ
ふるさとの山遠遠に
くろずむごとく凍る日に
天景をさへぬきんでて
利根川の上に光らしめ
祈るがごとく光らしめ。
――郷土風物詩――
くさつた蛤
半身は砂のなかにうもれてゐて
それでゐてべろべろと舌を出してゐる。
この軟體動物のあたまの上には
砂利や潮みづがざらざらざらざら流れてゐる
ながれてゐる
ああ夢のやうにしづかにながれてゐる。
ながれてゆく砂と砂との隙間から
蛤はまた舌べろをちらちらと赤くもえいづる
この蛤は非常に憔悴れてゐるのである。
みればぐにやぐにやした心臟がくさりかかつてゐるらしい
それゆゑ哀しげな晩がたになると
青ざめた海岸に坐つてゐて
ちら ちら ちら ちら とくさつた息をするのですよ。
[#改丁]
散文詩 四篇
[#改ページ]
「月に吠える」前派の作品
[#改ページ]
吠える犬
月夜の晩に、犬が墓地をうろついてゐる。
この遠い、地球の中心に向つて吠えるところの犬だ。
犬は透視すべからざる地下に於て、深くかくされたるところの金庫を感知することにより。
金庫には翡翠および夜光石をもつて充たされたることを感應せることにより。
吠えるところの犬は、その心靈に於てあきらかに白熱され、その心臟からは螢光線の放射のごときものを透影する。
この青白い犬は、前足をもつて堅い地面を掘らんとして焦心する。
遠い、遠い、地下の世界において微動するものを感應することにより。
吠えるところの犬は哀傷し、狂號し、その明らかに直視するものを掘らんとして、かなしい月夜の墓地に焦心する。
吠えるところの犬は人である。
なんぢ、忠實なる、敏感なる、しかれどもまつたく孤獨なる犬よ。
汝が吠えることにより、病兒をもつた隣人のために銃をもつて撃たれるまで。
吠えるところの犬は、青白き月夜においての人である。
柳
放火、殺人、竊盜、夜行、姦淫、およびあらゆる兇行をして柳の樹下に行はしめよ。夜において光る柳の樹下に。
そもそも柳が電氣の良導體なることを、最初に發見せるもの先祖の中にあり。
手に兇器をもつて人畜の内臟を電裂せんとする兇賊がある。
かざされたるところの兇器は、その生あたたかき心臟の上におかれ、生ぐさき夜の呼吸において點火發光するところのぴすとるである。
しかしてみよ、この黒衣の曲者も、白夜柳の木の下に凝立する所以である。
Omega の瞳
死んでみたまへ、屍蝋の光る指先から、お前の靈がよろよろとして昇發する。その時お前は、ほんたうにおめがの青白い瞳を見ることができる。それがお前の、ほんたうの人格であつた。
ひとが猫のやうに見える。
極光
懺悔者の背後には美麗な極光がある。
底本:「萩原朔太郎全集 第一卷」筑摩書房
1975(昭和50)年5月25日初版発行
底本の親本:「現代詩人叢書14 蝶を夢む」新潮社
1924(大正12)年7月14日発行
※底本では一行が長くて二行にわたっているところは、二行目が1字下げになっています。
入力:kompass
校正:門田裕志、小林繁雄
2005年6月14日作成
青空文庫作成ファイル:
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